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【心の】禅語のススメ【調整】

5月に入り、初夏の雰囲気漂う季節になってきました。
初夏と言えば、新緑の香り漂う風が気持ちの良い季節。
ただ、蒸し暑い日も時折訪れるようになり、夏の始まりを思い起こさせるような繊細な季節ですね。

この蒸し暑さがあるから、爽やかな風が際立つのも事実、このように考え方次第で、如何様にも心というものは捉える事が出来るのです。

5月を象徴する禅語で、薫風自南来「くんぷうじなんらい」というものがあり、「くんぷうみなみよりきたり」と書き下して読みます。

薫風とは、(若葉の香りを漂わせて吹く)初夏の風の事を言い、季節の変わりを爽やかに教えてくれます。
そして、この禅語は夏の訪れを教えてくれる言葉であると同時に、気付きを与えてくれる言葉でもあります。

薫風を際立たせるものはなんなのか、蒸し暑い日はただ過ごすだけでも大変ですが、そういう日だからこそ涼しい風の有難さを感じることができます。

冬の寒い日に若葉の香り漂う風が吹いても寒いだけで何も感じませんからね。

このように、禅語とはその言葉の意味だけでなく本質を隠し持ったものが多く、よくよく考えてみるとこんな意味も持っていそうだなと、捉え方を訓練する良い教材にもなると思います。

捉え方を変えていければ目の前の景色が変わってきます。

同じ現象でも、感じ方が違うだけで自分の、メンタル、身体、そしてそれに伴って周りの人のあなたへの反応も変わってくるのです。

脳が変わると、人は変わる。

それは科学で証明された真実だ。

でも、もっとすごい真実は、心が変わるとすべてが変わるということだ。

世界に対する自分の見方が変わるだけでなく、自分に対する世界の見方が変わる。

そして自分に対する世界の反応が変わる。

スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック

このように、自分の世界観を変えていける手助けをしてくれる言葉が「禅語」なのです。

今日はその禅語をいくつか紹介していきたいと思いますのでぜひ読んでみて下さい。

目次

行雲流水(こううんりゅうすい)

漂い行く雲の様に、川を流れる水のように、世の現象に抗うことなく過ごしていきましょう。

世の中は残酷なのではなく、正直なだけです。

良いものは良い、悪いものは悪いと、公平に審判を下します。

短期的な落ち方に惑わされず、長期的に、マクロな視点で物事を俯瞰していきましょう。

進む方向を間違えず、朗らかに、積極的な思考を維持し、勇気を持って継続し続けることで、必ずあなたのことを見つけてくれる人が現れます。

正しくモノを見定める「正見」

過不足なく事実を事実の通り視る事で、心地の良い「中道」へと心を留めておくことが出来るでしょう。

お前は今日はどうも頭が痛いとか、今日はどうも熱がありますとかいっている言葉の後に、愉快だとは思わない、実に不愉快だ、たとえ言葉に出さなくても心の中で思っているだろう。

何ともいえないいやな気持ちだなあ……と。

そして普段とちがって、よくない状態が体に現われてくれば、それを元にして痛いとか痒いとかいいながら、それが元でもっと悪くなりはしないだろうか、死にやしないだろうかというふうに、現実よりも過大に神経をつかいはしてないか。それがいけないのだ。

中村天風 運命を拓く

明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)

明珠とは美しく透き通った玉の事を言います。

掌に在りとは、気付いていないだけでもうすでにあなたの中には宝物があるんだよという意味になりますね。

自分の中にも光るモノ、幸せを引き寄せるモノは必ずある、人のモノを羨ましく思ったり、嫉妬したりせず、自分の中にある宝物を磨くために一生懸命働きましょう。

そうすることで、年を重ねる事が悲しい事なのではなく、樹齢が長い樹が大きな幹になるように、あなたの幹が太く逞しいものへ成長していくはずです。

どんなことでも強みには変わりありません、人の役には立たなさそうなことでも、人に伝えるには恥ずかしい事でも、それが人より秀でたモノであるのならば、磨くことを続ければ必ずあなたを幸せへと導いてくれるでしょう。

鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが 何もそんなことばに 耳を貸す必要はない せっせと磨くのだ 刀は光らないかも知れないが 磨く本人が変わってくる つまり刀がすまぬすまぬと言いながら 磨く本人を 光るものにしてくれるのだ

鈍刀を磨く 坂村真民

自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう)

自灯明、法灯明とはお釈迦様が入滅される寸前、最後の教えとして語り継がれています。

お釈迦様が入滅される時、弟子たちは「これからなにを拠り所として歩んでいけばいいんだ」と悲しんでいました。

その時のお釈迦様の教えとして、「法を灯とし他を灯とする事なかれ、自を灯とし他を灯とする事なかれ、人生は無常であるから、怠ることなく勤め励めよ」と話されたという事です。

無常とは、変わらない物は存在しないという事、世の中に対応しようと努力を重ねる事が、唯一あなたをどんな時も守ることになるだろうという事です。

変わらないモノがあるとしたら、それは法であると、重力が反対にはならないように、正しい行いは必ず正しいモノを与えてくれる。

目の前の欲望に惑わされることなく、法に従い、法を灯とし、日々勤み励む事が大切です。

そして、どんな時も裏切る事のないもの、それがただ一つ、自分自身です。

他の言葉や誘い、空気に惑わされることなく、自分自身を拠り所とし、自立した生活を営むことが自身に安心や自信を与えてくれます。

お釈迦様ほどの信頼を集めていた人が、最後の教えとして人を頼るな、頼るべきは自分自身と世の理のみであると伝えたというの事は、本当に自分の利益などを考えていたのではなく、目の前の人の為になることを届けよう。

利他の精神が垣間見え、自分を頼りとしつつも、他に最大限貢献する、富を独占しないという想いが伝わってきますね。

お釈迦様が弟子に課した修行として、お金をひとから頂く托鉢を課した話で、お釈迦様のミッションが必ず貧乏な人から預かりなさいというものがあったそうです。

それは、自身に人やお金、様々なものが集まってくる方法が、人に与える事だということを伝えたかったのですね。

お金がない時、余裕がない時はどうしても自分の持ち物を握りしめてしまう事になってしまうと思います。

しかし、ビジネスでもなんでも、人に与えた事に対する報酬、恩恵、感謝だったりする以上、自分の持ち物はシンプルに、余剰の出た部分は他に回していく事を心がけていきましょう。

心も経済も川と同じで、流れる場所は綺麗で様々な生物などが生息しています。

しかし流れの悪いところは、虫が湧き、水は濁り、美しいとは言えない状態になっていきますね。

成長することもそう、自身の持ち物に固執することなく、流れを意識し綺麗な小川を目指していきましょう。

喫茶去(きっさこ)

喫茶子とは、「まあまあとりあえずお茶でも飲みましょう」という意味になります。

これがなぜ禅語なのかというと、お茶を差し出すもてなし、これを貧富貴賤の別なくどんな時でも、どんな人でも平等に施す精神を持ちましょうという意味を持ち合わせています。

人はどうしても、お金を持っていそうな人には丁重に、そうでもなさそうな人には時間をかけずもてなしの質を変えて対応しがちです。

そのようなたくらみを含む人には漂うオーラのようなものがあり、結局は全ての人に対し変わらない施しを与える徳の高い人が人々から応援を受ける、信用を受ける、最後には得をするのも喫茶子の精神を持ち合わせる余裕のある人だと思います。

目標に追い回される、年齢の焦りを感じる、そのような事から急いでステップを駆け上がろうとしてしまいがちですが、一歩ずつ確実に登っていく事が信用を重ね、成果を上げる事に繋がる、最短ルートだと思います。

どんなことでも成果を出そうと思えば、時間と情熱が必要です。

楽をせず、余裕を持ち、正しい努力を積み重ねていきたいですね。

知足(ちそく)

人の欲望には際限がなく、これが手に入ったら満足だと言っても、手に入ればまた新しい良いものが欲しくなります。

これでは、富を蓄えたとしても、幸福であるとは言えないでしょう。

どんなに貧乏でも、悲観的にならず、その状況を楽しみ、志を持って努力を続けているもの、このような人はお金はなくとも、足るを知り、その状況に感謝し幸福感を持って日々の生活を送っていることでしょう。

これは現在の状況に甘んじて、行動しなくても良いということではありません。

人間を一番不健康たらしめるものは消極的な心、不安や心配、妬み嫉妬、これらのマイナスな感情や言葉があなた自身の印象を下げるだけではなく、神経を通じて脳から臓器へ、そして身体機能の低下をも招いてしまい、あなたを取り返しのつかない状況へと追い込んでいってしまうのです。

人はどうしてもほっておくと悲観的になりがちです。

そうしておかないと、狩猟時代には他の危険な動物、自然現象に命をとられてしまいますからね。

しかし、現在は脳に働きかける情報が多すぎて、容量を超えパンクしてしまいがちです。

主体的に自身の考え方をコントロールするようにしていかないと不幸を招きいれる体になりがちです。

自分が自然でいられる考え方、行動、これらを貫く覚悟と勉強が必要になってくるでしょう。

日々是好日 (にちにちこれこうじつ)

毎日の日々の尊さを感じ、日々の営みに感謝し、毎日毎日を楽しんで生きる。

この心がけを行うことで、過ぎ行く日々が好日となってゆくのだと思います。

この好日というのは、良し悪しの事ではありません。

禅の思想は、断定してしまう事や相対的な判断を嫌悪しますので、毎日が自分に都合の良い日だという意味ではなく。

どんな一日でも、良い日であったと捉えられるような心持ち、努力、余裕を持って日々を過ごしていきましょうという意味だと捉えています。

日本語訳にすると「毎日が良い日だ」ということになりますが、この言葉には色んな意味を含んでおり、様々な捉え方を考えてゆく事、これが楽しく、成長するということであると思います。

他と比べて見劣りすると感じてしまう時もあると思います。

しかし、状況から判断し自分を陥れるものも、その状況からの発破を受け、行動してゆく事も自分の自由であり、自分の責任なのです。

最後に

あなたを縛る事の出来るものは、実はあなた自身だけです。

人間は心持ちひとつで状況に関係なく幸福になる事もできるし、不幸になる事も出来てしまいます。

お金があるから幸せなのではなく、豊かな心を持っているから幸せで、結果お金や人も引き寄せる事が出来るのです。

禅の言葉にはそのヒントがたくさん隠されており、禅問答というものも考える力を養うためのものです。

仏教は実践の宗教とも言われており、読んで唱えるだけではなく、実際にやってみて経験し、自身に腹落ちさせる事で初めて身につくものと戒めています。

様々なものに囲まれている現代、自身と法だけを灯とし、それ以外には執着せず流してゆく、そんなシンプルな生活を楽しんで、どんな事があった日も、心から今日も「好日」であったといえる様な人になれるよう、精進を重ねていきたいですね。

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