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【殿様からの指令】理不尽な扱いを受けながらも孤軍奮闘しているあなたへ【人工衛星を打上げろ】

蒸気船

日本は家電、自動車などの製造を強みに80年代から世界への輸出を展開し、高度経済成長と呼ばれる経済ボーナスステージがありましたね。

日本人の勤勉な所、几帳面で細部までこだわりを施す所、こういった事が自動車は壊れるもの、家電は一定期間で買い替えるもの、という今までの概念を一変させ、修理に詳しくない人たちにも、安価で丈夫なモノを提供でき、それが世界中の人々に受け入れられ、日本の自動車、家電が世界を席巻していきました。

しかし、それから実態のない経済の膨張によるバブルがはじけ、人々の心に貯蓄、貯金の心理がまた根を生やす事になります。

そういった背景もあってか、日本人は外国人よりも資産の割合における、投資の比率がとても低いらしいです、その貯金を投資に回せば、それだけでかなりの経済効果になるんじゃないかとも言われています。

1853年、日本に突如、代将マシュー・ペリー率いる黒船が来航し、日本は圧倒的な戦力、技術力の前に恐怖することになります。

その当時の日本の状況はというと、鎖国制度をとり、諸外国と交流を持たない、厳しい階級制度があり人々から民主的な自由を抜くことで、反乱を起こさせないなど、保守的な政策がとられ、江戸幕府は自分たちの地位を守り続けてきました。

そのおかげで、大きな戦争もなく、200年以上の長い期間、江戸幕府の時代が続いたということも言えると思います。

江戸の人たちはよく笑う人たちだったと、そう記されている文献も数多く残されています。

しかし、その間に外国はどんどん成長を重ね、当時日本とは比べ物にならない程の技術力を身につけていました。

そして、黒船到来、開国しなければ攻撃すると脅しをかけ、江戸幕府は震えあがります。

その対応を見た日本の侍たちは、溜まりに溜まったうっぷんを爆発させ、自分たちの正義を通すため、各々の信念の元、未来の日本の為に動き始めるわけですね。

その当時、武士と呼ばれる人たちにも階級がついていました。

現高知県、土佐藩では武士を上士、下士と分け上士は下士の武士を虫けら同然のように差別していました。

そういった階級による差別はあらゆる地域に残っていて、人々は鬱憤を溜め込んでいました。

そして、風雲の時代へ世は進み、血で血を洗う戦場へ、日本が変わっていく事になります。

今の時代も、高品質で耐久力に信頼を持っていた日本製品が、中国製品の安価で十分な品質、アメリカのGAFAMを筆頭としたハイテクノロジーの台頭、これらのいわゆる黒船のような新しい脅威によって、既存の価値観に甘んじていてはならない時代に入ってきているのかもしれません。

幕末当時、未来の日本の為、今の自分が何をすべきか、命がけで考え行動し続けていた人達が存在していました。

今の時代を生き抜く為、そして楽しむ為に、当時の人たちはどう生きていたのか、今一度振り返り、これからの日々に活かしていきましょう!

目次

宇和島藩士 前原巧山

功績を称えられ、前原の名字を名乗る事を許されるが、元は喜蔵という名を持ち、名字を名乗ることは許されておらず、身分も低い立場であった。

宇和島の城下町で提灯の張替えや細細工をなんでも請け負ういわば、便利屋をやっていたのだが当時の風潮として、餅は餅屋とその道の職人に仕事は依頼する傾向が強く、毎日の生活は今日を生きる事に精一杯という日々を送っていた。

そこへ、参勤交代から帰って来た殿様、宇和島潘8代藩主、伊達宗城は浦賀で見た黒船を自藩でも製造しようと、藩の家老桑折左衛門へ伺いを立てた所、懇意にしている喜蔵が推薦され、蒸気船製作を言い渡される。

身分も低い、提灯屋さんの喜蔵を今でいうとスペースシャトル製造の大役に抜擢するような、大胆すぎる選出は、急な大役を言い渡される新米ビジネスマンに勇気を与えますね。

司馬遼太郎は「この時代宇和島藩で蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と述べている。

しかし、喜蔵も急な大役に肝を冷やし、居ても立ってもいられず、夜半の間ずっと城下町をうろつき、そして朝を迎え、気がつくと漁師に混じって地引網を引いていたといいます(笑)

地引網はろくろを回し、網を引くのですが、そこから着想を得て(今でいうゼンマイ仕掛けの様なもの?)自動機関を作り、それをおもちゃのような車にとりつけ、家老桑折左衛門に披露します。

その制作した箱車を、難しい書式の口上書を添えられ、多くの経路をたどり、殿様へ披露され、それを見た殿様は手をうって喜んだといいます。

そして、その後喜蔵は士分(御雇、二人扶持五俵)に取り立てられ、藩のお雇い大工となり、蒸気船製造の藩命を受ける事となります。

しかし、身分が低い喜蔵が、役所から袴に大小を差し、裡町(現中央町付近)の自宅に帰ったところ、近隣の住民は気が狂ったのかと思ったと言います(笑)

理不尽な扱い

それからまもなく、長崎への蒸気船製造の研究の為、出張が言い渡され、出発するのですが、身分の低い出の喜蔵は、蒸気船製造の大役を任されながらも、同行の監督役、須藤段右衛門という者に差別され、出張先でもひどい扱いを受け続けます。

ある夜、食いはぐれたためにひもじさに堪えかね、自分で魚を買ってきて流し元でもそもそと庖丁をつかっていると、有田屋の妻女が台所へ走りこんできて、「お前は、なにをしている」と、口ぎたなく罵りはじめた。その魚は当家のものを盗んだのだろう、とか、他人の家に入って勝手に炭をつかうことがあるか、とか、そのあしらいはまるで乞食に対するようであった。

司馬遼太郎 酔って候

修行中も身分の低さを吹聴されたが為に、軽視され軽く扱われた。

長崎の町医で吉雄圭斎という男からは、蒸気機関の事を知っていると伝えられ、その模型を作ってもらえるという知らせを受けるが、預けた8両は須藤段右衛門と4両ずつ山分けされており、出来た模型もおもちゃ同然だったといいます。

喜蔵は落胆し、藩の期待を背負って来た出張先で何も成果がなく、懇意になっている長崎奉行所、山本物次郎に「むだでございました」と泣き訴えをします。

この人が、「オランダから小型蒸気船が一隻くるから、もう一度見にこい」と言ってくれますが、喜蔵は「いやいやもう黒船などは結構でござります、このような憂きことのみ見るようなことでございましたら、宇和島でもとのちょうちん屋にもどりとうござります」

と泣き声をあげて弱音を吐くのですが、山本物次郎は喜蔵へ励ましの声をかけてくれます。

嘉蔵どのは国士ではないか。いまどきの日本で黒船をつくろうと志す者がいくたりある。余人は知らず、この物次郎はあなたを宇和島のちょうちんはりかえではなく、日本の国士として遇してきた。その国士たる者が、左様な気のよわいことを申されるな

司馬遼太郎. 酔って候 (Kindle の位置No.2791-2792). . Kindle 版

大変な上司、理不尽な取引先、対応に苦労するお客様、仕事をしていると時に様々な人たちと関係を持たざるを得ない状況に置かれることがあります。

その時、自分の世界にはこのような人間しかいないと錯覚に陥り、自暴自棄になり、大切な人にも攻撃してしまったり、自分で世界を狭めてしまうような心境に陥ってしまいがちです。

しかしそれは心のバランスが崩れているだけの話、卑屈にならず目的を見失わず、努力を重ねていけば、必ず拾い上げてくれる人が現れてくれるものだと、この話から教えてもらえますね。

使命を自覚する

そして、三度の長崎出張を経て、ついに喜蔵は蒸気船の製作に取り掛かります。

この時、実質の指導は喜蔵ひとりでするにもかかわらず、辞令の内容は高禄者が名をつらね、最後に「御雇喜蔵」と小さく書かれているだけでした。

そして、喜蔵はボイラーは銅板の張立であるべきと主張していたのですが、その意見は通らず、藩の役人たちに鋳物での製造へ変更させられ、不服な思いを抱いたまま、試運転の運びとなります。

蒸気圧力が十ポンドになったとき、汽罐は水神に化したように水気を噴出しはじめ、一同作業場にいることもできず、みなにげはじめた。嘉蔵は、汽罐をとめた。

司馬遼太郎. 酔って候 (Kindle の位置No.2924-2926). . Kindle 版

そして、鋳物での製造を無理やり進めたのにも関わらず、藩士たちは口々に喜蔵を罵倒し始めます。

藩士たちはその嘉蔵をとりまいて逆上して叫んでいた。切腹じゃ、切腹はまぬがれまい、という言葉が、作業中の嘉蔵の耳に切れぎれに入った。

司馬遼太郎. 酔って候 (Kindle の位置No.2927-2928). . Kindle 版.

ホントに、組織の黒い所が怖いほど感じられるような描写ですね。

しかし、顔をあげた喜蔵は

「切腹して、汽罐がつくれますか」

司馬遼太郎. 酔って候 (Kindle の位置No.2929-2930). . Kindle 版.

と言い放ちます。

様々な人と出会い、その影響を受け自分の仕事に使命を感じた時、人は自然と我を無くし、使命を全うする為の行動がとれる様になるのかもしれません。

困難の先にあるもの

そして、次の製作では藩をあげて喜蔵の要求通りに作業をすすめる事とし、八ヶ月をかけ、ついに完成することになったのです。

汽罐に火を入れ、しずかに、順序よく嘉蔵は操作した。やがて船は動きだした。嘉蔵は首をねじまげて船窓に映る外景を見た。天守閣がかすかに動いていた。嘉蔵は腕で汗をぬぐい、(動いた)とおもった。嘉蔵は相変らず無表情に焚き口にしゃがんでいたが、すぐ四つ這いになった。船はしずかに動いている。しかし嘉蔵だけは体がぐらぐらと揺れてかがんでいられなかった。感動と狂喜が、四つ這いになった嘉蔵の全体をひき裂くように奔った。不覚にも小便が洩れた。股間を濡らしはじめたが嘉蔵はそれに気づきもしなかった。

司馬遼太郎. 酔って候 (Kindle の位置No.2986-2992). . Kindle 版

こうして、幾度となく困難を乗り越えてきた喜蔵の蒸気船製造の藩命にようやく終止符が打たれることとなりました。

乗り越えてきた困難の大きさが巨大だっただけに、その喜びはひとしおだった事でしょう。

その喜びは船上で喜ぶ殿様や役人たちには体験することのない、困難を乗り越えた者にだけ与えられる特権です。

10日ほどの差で、薩摩藩に蒸気船の製造を先をこされる事となったのですが、外国人技師を雇っていた為、純国産での蒸気船製造は宇和島潘が初だったといいます。

しかもそれを、実質一人の提灯屋さんが一から作り上げてしまう。

人は自分で限界を設けず、何事にもチャレンジをし、自分の出来る事を見つける事で、ここまで大きな事が出来る可能性を秘めていること、この話から感じ取ることが出来ました。

喜蔵はこの功績を称えられ、「前原」と苗字を名乗り、下士として取り立てられることとなりました。

武士ともいえない身分ではありますが、提灯張りかえとしては奇跡的な出世だそうです。

これがペリー来航から7年目のお話、、、

ちなみに、その後大阪でパンの製造を企て、商売を始めようとしますが、蒸気機関を作った喜蔵がなんとパンの製造には失敗し、商才もなかった為、たった一年で宇和島へ戻り、余生を全うすることとなったそうです(笑)

自分の才能を的確に判断することの大切さが垣間見れる話しですね。

最後に

人には無限に広がる可能性がある、そして今つらい仕事を抱えている人に、前原巧山の物語は勇気を与えてくれるんじゃないでしょうか。

自分の可能性を狭めているのは自分自身、色んな人と出会い、行動し、自分の可能性を掘り下げていく事で、広がる世界がまた違ってくると思います。

150年前に、小さな城下町で一人で人工衛星を打ち上げてしまった提灯屋さんがいる。

これは、平凡である自分にとても勇気を与えてくれました。

竹内はしばらく沈吟して考えた。やがて嘉蔵のいうことが正しいとわかり、おどりあがるようにして手をとった。「足下は、蒸気にかけてはすでに日本一である。いや、二番はない。唯一の人だ」といった。嘉蔵はその手を何度も押しいただき、奇妙な声を出して泣いた。蒸気機関の日本一といわれたことがうれしかったのではなく、人並に遇してくれた竹内の優しさについ感情がたかぶってしまったのだ。

司馬遼太郎.酔って候(Kindleの位置No.2887)..Kindle版.
酔って候 (文春文庫) [ 司馬 遼太郎 ]
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